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1970~80年代、未婚の妊娠した女性を自宅に預かった体験談

アイルランドの母子施設で起きた人権侵害についての報告書が先週発表され、メディアはこの件でもちきりだったわけですが、これに関連して当時の体験談などもいろいろ新聞に掲載されています。

 

www.irishtimes.com

 

 

こちらの記事は、妊娠した女子学生をホームステイのような形で受け入れた女性の話。ステファニー・ウォルシュさんは3人目の子供を産んだところでしたが、17歳の妊娠した少女を一時的に預かってくれないかと問い合わせを受け、承諾したとのこと。彼女が受け入れていなければ、少女はマザー・アンド・ベイビー・ホーム (今回の報告書の対象となった施設の1つ) に送られた可能性が高かったそうです。1971年の話です。

 

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ステファニー・ウォルシュさん

 少女は家事を手伝うなどしながら、子供が生まれるまでウォルシュさん一家と一緒に暮らしました。なぜ少女の自宅に留まらなかったかというと、少女と両親は周りの人に妊娠したことを知られたくなかったからです。それが70年代の空気でした。

 

出産の後、少女はウォルシュさん、両親、ソーシャル・ワーカーと話をし、子供を養子に出すことに決めたそうです。ウォルシュさん「当時のアイルランドでは、それが最良の選択肢のように思えたものです。妊娠したシングルの若い女性にとって選択肢はほとんどありませんでした」。

 

また、リムリック県に住むエレイン・オマリーさんとその夫は、1979年から1983年の間に、妊娠した若い女性を5人預かったそうです。一番若い人は17歳でした。ソーシャル・ワーカーが仲介し、お金のやり取りはありませんでした。女性たちは自分の部屋を提供され、家事や子供の世話を手伝い、最長で6か月ほどオマリーさん宅に滞在しました。

 

オマリーさん「彼女たちは家族の一員のようなものでした。一緒にご飯を食べ、テレビを見、タバコを吸い、日曜にはどこかに出かけたりしました」。

 

オマリーさんの方から女性たちのプライベートについて尋ねることはありませんでしたが、一緒に暮らすうちに女性たちの方から身の上話をするようになります。1人の女性は、父親を亡くしたばかりで、残された母親にこれ以上心労をかけたくないと言っていました。また別の女性は、遠くで仕事が見つかったと家族に告げて出てきたそうです。

 

あるとき、1人の女性が逃げ出しました。彼女が戻ってきた後、ソーシャル・ワーカーの人もやってきました。2人が話している場にオマリーさんも同席しました。オマリーさんはソーシャル・ワーカーの人が女性に言った言葉が忘れられないそうです。「たった2秒の楽しみに、こんな思いをしなければならないだけの価値があるの?」 (Were two seconds of pleasure worth it for all this?)。はっきりは言っていませんが、「2秒の楽しみ」というのは性行為のことなんだと思います。

 

オマリーさんは養子を出す場にも立ち会ったことがあるそうです。女性と赤ちゃん、そして尼僧が部屋の中に入り、しばらくして女性は赤ちゃんなしで出てきます。オマリーさんも自分の赤ちゃんを亡くした体験があったので、女性の深い悲しみが理解できたそうです。

 

赤ちゃんを養子に出した後、女性たちはオマリー家に1週間から10日ほど滞在しました。オマリー家としてはもう少しいてもらいたかったのですが、ソーシャル・ワーカーが「そろそろ普段の生活に戻る頃ですよ」と言いに来るわけです。

 

いったん女性たちがオマリー家を離れた後は、女性たちと連絡を取り合わないことは最初から決まっていました。「彼女たちにとっては、私たちは忘れたい過去の一部なのです」とオマリーさんは言います。「一緒に暮らした彼女達のことはよく思い出します。特に (報告書がリリースされた) 今週は」。

 

次は、ソーシャル・ワーカーのブリジットさんの話。ブリジットさんは70年代後半から25年ほどアイルランド西部でソーシャル・ワーカーとして働きました。望まない妊娠をした女性に対応する2人のスタッフの1人だったそうです。

 

「その仕事をしていたときの忘れられない思い出は、悲しみです。なぜなら、私が仕事で知り合った人々のすべてが悲しみを抱いていたからです」

 

まず、子供ができない人々、つまり養子を貰いたいと申し込んだ人達は深い悲しみを抱いています。そして子供を養子に出すお母さんも筆舌に尽くしがたい悲しみを抱いています。さらに養子に出された子供自身。自分が何者なのか分からないという苦悩を抱きます。

 

ブリジットさんによれば、妊娠した娘の母親がうろたえながらも相談に来ることはよくあったそうです。父親 (妊娠した少女の父親) やボーイフレンドが来たことはまったく記憶にないとのこと。

 

ブリジットさん「来るのはいつも女性でした。親に言えない場合は少女が一人で。少女の女友達が一緒に来ることもありました。男性は不在でした」。

 

ブリジットさんが対応した妊娠女性のほとんどは20代から30代で、定職についている人も少なくありませんでした。そういう人たちは職を失うことを恐れていました。「年齢にかかわらず、家族の支援がなければ赤ちゃんを手元においておくことは難しかったのです。そして、家族の支援がいつもあるわけではありませんでした」。

 

ブリジットさんのいた事務所では、400件の養子縁組を取り扱ったそうです。女性の親に妊娠のニュースを届ける役目をブリジットさんがやらなければならないときもありました。「ある少女は妊娠したことを母親にどうしても言うことができませんでした。だから私にそれを頼んだのです」。母親と会って娘さんの妊娠について告げると、母親はこういったそうです。「癌にかかっているというニュースの方がマシだったわ」。当時は癌はほぼ不治の病と考えられていました。

 

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