たらのコーヒー屋さん - 2 店舗目

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メアリーの話

 

 

また母子施設のスキャンダルに関連するストーリーですが、パッチー・マガリー (Patsy McGarry) という記者が、未婚のまま妊娠してロンドンに移住したメアリーさんの話をアイリッシュ・タイムズに書いていたので訳してみました。

 

 

www.irishtimes.com

 

 

 

彼女は名前をメアリーといった。彼女には子供がいた。

 

彼女が婚約者と共にロンドンにやってきたのは1950年代のことだった。彼女の妊娠がアイルランドを去った理由だった。ロスコモン県の田舎で生まれ育った彼らは、それまで海外に出たことは一度もなかった。

 

2人は仕事を見つけた。メアリーはWHスミスのオックスフォード・ストリート店で働いた。しばらくするうちに婚約者は去った。彼女の抱える事情を分け合う準備ができていなかったのだ。その事情に彼が関与していたにもかかわらず。彼はアメリカに逃げた。

 

メアリーは見捨てられ、悲嘆にくれた。ある日、彼女は公園で横になり、彼女と赤ん坊をこの世から連れ去ってくれるように神に懇願した。膨れたお腹が日差しを遮っていた。神は彼女たちを連れて行ってはくれなかった。

 

ある日、WHスミスの店で、彼女の苦悩に気付いた同僚の年配女性が「どうしたのか」と尋ねてきた。メアリーは泣き崩れ、彼女の身の上を話した。

 

衝撃を受けたそのイングランド人女性はメアリーを抱きしめ慰めた。彼女はメアリーをロンドン南部の広い自宅に連れて行った。明るい半地下の部屋を見せ、ここに住んではどうかと勧めた。

 

30年以上にわたって、そこがメアリーの家となった。息子をそこで育てた。彼女は一生の間ずっと働き続け、お互いに合意した印ばかりの家賃をその親切なイングランド人女性に支払った。

 

メアリーは、ロンドンのアイルランド人コミュニティとはほとんど関わりを持たなかった。例外は、彼女の家の近くで額縁屋を営む一風変わった夫婦だけだった。彼女はその店で働いた。仕事も好きだったし、その店にやってくる客たちのことも好きだった。

 

その店の客のほとんどは演劇関係者だった。彼らの直感的な寛容さ、人生を謳歌する姿、ゴシップ好きなところ、そして (当時の基準で言えば) ありえないようなライフスタイルが彼女を楽しませた。こうした演劇界の過剰な華やかさの下には、人間や恋愛に関する正直さが隠れていることに彼女は気付いていた。そしてそれは、社会の本流には欠けていたものだった。

 

彼女は息子のためにミサに出かけた。しかし、その頃には、彼女自身の信仰心はひどく揺れていた。アイルランドにはほとんど帰らなかったが、兄のひとりとは連絡を取っていた。ビジネスマンだった彼はメアリーを助け、ときどきロンドンに会いにきた。しかし、その兄でさえも、彼女がアイルランドに帰ったときはぎりぎりのところまで追い詰められた。

 

兄はメアリーを車に乗せると、後部座席に隠れるように言った。近所の人が彼女の姿を見つけて質問を投げかけるのを避けるためだ。息子がアイルランドに来たときは、彼も後部座席に身を潜めなくてはならなかった。

 

さらにひどいのはメアリーの母親の態度だった。本質的には親切で温かい女性だが、信仰心は非常に篤かった。アイルランドにいるときはメアリーもミサに出かけたが、母親は彼女と同じ列には座ろうとしなかった。

 

メアリーは、こうした屈辱を彼女が支払うべき代償として受け入れた。彼女自身の道徳観にも反する罪を犯したからだ。彼女は自分のことを価値がないと思った。国外に追放されて一生暮らすのも当然だと思った。母親、婚約者、教会、アイルランドを責めることはなかった。少なくとも確信をもって責めることは。

 

自己憐憫もなかった。あるのは、わずかな自己嫌悪だけだった。息子の父親である男性がいなくなった後、彼女が別の男性とつきあうことはなかった。元婚約者の方はアメリカで結婚し、子供を作った。

 

既に子供がいるのに、彼女とつきあおうと思う男性がいるなどとどうして考えることができようか? そんなことをどうやって男性に告げればいいのか? 繰り返される拒絶にどう向き合えばいいのか? 恋愛には一切関わらない方がいいと彼女は信じていた。そして、そのとおりに行動した。

 

メアリーは息子をロンドンにあるカトリックの学校に通わせた。学校が彼を大切に扱ってくれればいいと思った。彼女の罪のせいで、一般家庭の子供たちが彼をいじめることがなければいいと思った。真実を知ったときに彼が傷つかなければいいのにと思った。

 

成長するにつれ、息子は信仰心を深めるようになった。同時に自身のアイデンティティについて興味を持ち、混乱した。自分はアイルランド人なのか、それともイングランド人なのか。メアリーにとって、アイルランド人のアイデンティティを持つよう息子に促すのは難しかった。しかし、アイルランドの悪口を言ったことはなかった。彼女は恨み言を言うような人間ではなかった。

 

彼の息子は今、北アメリカに住んでいる。とても遠いところだ。

 

1990年の初め頃、メアリーは兄と住むためにアイルランドに戻ってきた。しばらくして彼女は病に倒れ、数年かけて痛々しく衰えていった。彼女は2000年に死んだ。生きていたときと同じくらい遠慮がちに。彼女を知る人からはとても好かれていた。愛されていたと言ってもいいかもしれない。

 

あの夏、学校の休みでロンドンを訪れたときに彼女から聞いたストーリーは、当時の私が抱いていたアイルランドに対する世間知らずの見方に大きな穴をあけた。私は彼女の息子より少し年上だった。次の夏、私は彼らの家に滞在した。メアリーは、家からそれほど遠くないところの建設現場に職すら見つけてくれた。

 

ある夜、私はお礼として彼女をウェスト・エンドに連れて行った。『リトル・ナイト・ミュージック』というミュージカルを観るためだ。あまりいいミュージカルではなかったことに私たちは合意したが、『センド・イン・ザ・クラウンズ (Send in the Clowns)』という主題歌は2人とも気に入った。そして、この曲が私たちのテーマ・ソングになった。

 

その後、軽口をたたき合うような瞬間がやってくると、彼女は私にこう歌ったものだった。「素敵じゃない?/私たちはカップルでしょ?/私がやっと地上に戻ってきたのに/(彼女はもっと小さかった)/あなたは雲の上/道化を連れてきて」

 

私はそれにこう応じる。「道化はどこにいる?/早く道化を連れてきて/いや、もういい … 私たちが道化だったんだ」

 

メアリーは私の叔母だった。

 

 

 

「Send in the clowns」というフレーズは、もともとはサーカスで使われる言葉。予期せぬ事故が起きたときに、「早くピエロを舞台に出して場をつながせろ」という意味で舞台監督などが袖で叫んでるイメージですね。ピエロが観客の視線を集めているうちに、事態を収拾するということです。

 

『リトル・ナイト・ミュージック』は、イングマル・ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』を下敷きに、スティーヴン・ソンドハイムが曲を書いたミュージカルです。初演は1973年にブロードウェイで。ロンドンのウェスト・エンドでの公演は1975年。

 

劇中、『Send in the Clowns』は中盤と終盤の2回歌われます。中盤では、下り坂の中年女優が、若いトロフィー・ワイフをもらったばかりの元恋人の弁護士に愛を告白し、拒絶された後に歌います。曲を作ったソンドハイムは、「クラウン」はサーカスのピエロではなく、愚か者のことだと後のインタビューで語っています。過去のすれ違いのあと、カップルになれると思っていたら、拒絶された。この予期せぬ事態にピエロを呼び込んで場を収拾してほしい。と思ったんだけど、よく考えたらピエロ (愚か者) は自分自身だった、という歌です。2回目に歌われるシーンについてはネタバレになるといけないので書きません。

 

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