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ジョン・ティーリング物語

1987年にクーリー蒸留所をオープンし、アイリッシュウイスキーを復活させた男として知られるジョン・ティーリング氏。彼のインタビュー記事が、2019年2月28日のアイリッシュ・インデペンデント紙に掲載されていたので翻訳しました。

 

彼は鉱業の世界にも関わっていたので、そちらの方の面白い話も聞くことができます。

 

www.independent.ie

 

(翻訳ここから)

「次に大きな産業となるのはマリワナだ」とアイリッシュウイスキーを復活させた男、ジョン・ティーリング氏が語る

文: エリー・ドネリー

2019年2月28日

 

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私たちのほとんどは70代になれば引退を考える。だが、ジョン・ティーリングは違う。彼は、次の先進的な展開を見据えている。

 

「マリワナ業界の動きに注目している。理由は単純で、アルコールと競合するからだ。マリワナ業界は大きくなる。なりつつある。ならないわけがない」と73歳のベテラン投資家は言う。「マリワナ業界になんらかの形で関与したいと考えている。おそらく参画することになるだろう」と彼は付け加えた。

 

3人の子供を育て、68歳までラグビーをプレイしたティーリング氏は、彼が名を成した2つの産業、すなわち鉱業と蒸留業でも今後のプランを思い描いている。

 

「いわゆる人工ダイヤモンドについて研究するつもりだ」と彼は言う。「これは一種の天然ダイヤモンドだ。圧力釜の中で育てる。しかし、技術的に大きな問題がある。本当の天然ダイヤモンドに取って代わるものになるか? いや、そうはならないだろう」

 

蒸留酒ビジネスについては、「ウイスキー関連の事業をさらに発展させる」と語る。つまり、グレート・ノーザン蒸留所を成長させるということだ。このウイスキー蒸留所は、ラウズ県のグレート・ノーザン醸造所のあった場所に彼が2012年に設立したものである。

 

「それだけで充分忙しくしていられるだろう」と彼は言う。

 

ティーリング氏が働き始めたのは14歳と早かった。父親を亡くした影響もあった。

 

「私は一番上の子で、14歳で働き始めた。選択肢はなかった。私の母は37歳で、田舎の出であり、教育も受けていなかった。当時はひどい状況だったが、とても良い勉強にはなった」

 

彼自身の言葉によれば、集中力が「非常に優れていた」ために、学校で優秀な成績を収めた。奨学金を得て UCD (アイルランド大学ダブリン校) に進学し、商業を学んだ。

 

さらに奨学金を得て、ペンシルベニア大学のウォートン校に進んだ。ダブリンに戻った後、ティーリング氏は UCD で教鞭を執るかたわら、鉱業コンサルタントとしても働き始めた。

 

50年が経ったが、今でも彼はその時に借りた質素な事務所を使い続けている。書類整理棚と何本かのウイスキー以外にはほとんど何もないダブリンの事務所だ。

 

「50年前に借りてから、一度も引っ越していない。なぜかって? 私はあまりモノには興味がないんだ」と彼は言う。

 

大学講師の頃から株式を売買していた。彼が採用したのはベンジャミン・グラハム・モデルだ。

 

「このモデルにしっかり従えば金が儲かるのだが、誰もそうしない。割安株を買えばいい。それ以外、何も必要ない。リービング・サート (訳注: アイルランドの大学に入学するための共通試験) の知識すら必要ない。ある価格で株を買い、価値に見合うと思われる値段になるかどうか見極める。そして売ればいい」とティーリング氏は言う。

 

アイリッシュウイスキーを復興させた男として知られる彼だが、ウイスキー産業に携わるようになったのはほとんど偶然だと言う。ちなみに、ティーリング家のこの伝統は、ダブリンのリバティーズ地区にティーリング・ウイスキー蒸留所を開いた息子のジャックとスティーブンに引き継がれている。

 

1970年代にハーバード大学のビジネス・スクールの博士課程に在籍していた彼は、ケース・スタディをいくつも書かなければならなかった。「当時の私の指導教官はウイスキーが好きで、『アイリッシュウイスキーについて調査してみてはどうか』と提案してくれた。始まりはそこからだった」

 

ウイスキーについてはまったく無知だった。どれだけひどいマーケティングが行われているかを知って、衝撃を受けた。そこで私は、アイリッシュウイスキーの衰退について、バックグラウンド・ノートを書いた。信じがたいほどの大失敗についてだ。付加価値という観点から言えば、それは最高の業界だった」

 

1987年、アイルランドに完全に戻ってきたティーリング氏は、事業拡張スキーム (BES) という税金優遇制度を活用してクーリー蒸留所を設立した。彼はこの蒸留所をアメリカのバーボン大手企業であるビーム社に7,000万ユーロを超える金額で売却した。2012年の話である。

 

しかし、ウイスキー・ビジネスは「損得抜きの愛がなければできない仕事」だと彼は認める。「ウイスキーに付随するリスク・プレミアムは年に30%だ。私を支援してくれたベンチャー・キャピタル (VC) 会社はない。今でもそうだ。リスクが高すぎるんだよ。VC は3年から5年で物を考える。だが、世界は3年、5年の単位で動いていない」とティーリング氏は言う。

 

現代社会において起業家の大きな弱点の1つは、キャッシュ・フローがプラスになるまでの時間を短く見積もってしまうことだ」

 

ウイスキーは目も当てられない。利益が出るまでに11年かかり、投資資金を回収するのに15年かかった。VC  から見てもらえるのは、よくて5年だ。今の私はウイスキー業界の教祖的存在に見られているかもしれないが、実際のところ、私は何もしていない。すべて皆さんのお陰だ。若者たちが茶色い蒸留酒 (訳注: ウイスキーのこと) を飲み始めたのは約20年前。それが世界中のトレンドだ。誰がアイリッシュウイスキーを飲んでいるか知っているかね? 22~39歳の層だ。すばらしいことじゃないか」

 

よく知られていることだが、彼は自分の会社をアイルランドで上場したことはない。そして、その理由を隠すこともしない。

 

アイルランド機関投資家はけっして私を支援しなかった。大きな投資会社も、保険会社も、年金資金も。彼らは私の事業を支援しなかった。私が彼らと本腰を入れた取引関係を築いてこなかったからかもしれない。私は常にロンドン株式市場で取引することを好んだ。だから、私たちの15社は、すべてAIM (ロンドンのオルタナティブ市場) に上場している。アイルランドで上場した会社は1つもない。コストがかかるし、より厳しい規制に従わなければならないからだ」

 

「(ユーロネクスト社に買収されたことによって、アイルランド証券取引所は) 新興企業にとって、よりやさしい取引所になると思う。ロンドンのAIMの未来はあまり明るくない。規制が増えているからだ。起業家を押さえつけても、何も生まれない」

 

彼が人生を通して愛してきたビジネスがもう1つある。鉱業だ。しかし、この事業が非常にハイリスクであることは彼も認める。「友人たちはこう言う。『70代、80代になってもまだやっているんだから、事業の裏も表も知り尽くしているんだろう』。まさか! 地面の下、5kmのところに何が埋まっているか、私にわかると思うかね? 思いどおりに行くことなんて、めったにないんだよ」とティーリング氏は手を広げながら語る。「この事業はハイリスク。ハイリスクというのは、損失のリスクが高いということ。利益を得る可能性が高いということじゃない」

 

「資源会社に関して重要なことは、地質は変化しないということ。しかし、政治的にリスクの高い国に行かなければならない。私はジンバブエに行った。(大統領の)ロバート・ムガベは1986年に死ぬはずだったからだよ。しかし、2019年の今でも彼は生きている (訳注: ムガベは2019年9月に死去)。だから、ジンバブエに行ったのは賢明な選択だったとはいえない」とティーリング氏は語る。「ボリビアにも行った。1988年から2006年ごろまでは非常にうまくいったが、その後、会社は国有化され、私たちは放り出された。しかし、地質は非常によかった」

また、鉱業や石油は、「自分の評判を落としたい人にはもってこい」の産業だという。

 

「株価が上昇するのは、私たちが投資について良い意思決定をしたからだ。だが、株価が下がるのは、私がペテン師だからだ」

 

彼は、「探査会社が私たちの資源を盗んでいる」とアイルランドで言われたことを例にあげる。

 

「まだ見つかっていない資源なのに何を言っているのか。所有すらしていないものが盗まれるなんてありえないだろう。大西洋の深いところに穴を掘るために2億ドル使おうなんて人間は、本物のすっとこどっこい野郎だけなんだ」

 

「なぜ政府がそこに金を使わないのか? わかりきった話だ。地面の下に何があるかなんて誰にもわからないからだ。確かめるには穴を掘るしかない。小洒落た機械だか、魔法の杖だかしらないが、そんなものは役には立たたない。冗談じゃない! だからこそ、ワクワクするんだよ」とティーリング氏は言う。

 

では、なぜ離れないのか? なぜ別の産業に目を向けないのか? たとえば、不動産とか? (よく知られていることだが、ティーリング氏は自宅を所有しているだけで、不動産に投資したことは一度もない)。

 

「この上もない体験をしたからだ。1つ話そう。2004年11月19日に電話があった。こんな電話はめったに掛かってくるものじゃない。それは、デビアス社 (訳注: ダイヤモンド採掘大手企業) の世界探査責任者からの電話だった」とティーリング氏は言う。

 

「彼はこう言った。『ジョン、ボツワナで良い穴が開いたみたいだ。あそこには、たぶん何かある』。こんなことは他にない。穴を掘って何かが見つかることほど素晴らしいものはない。私の経験の中で、これに勝ることなんて他にないんだよ。この鉱山は後にルカラ・ダイアモンド社のものとなった。最終的には私たちの手を離れたわけ

だが、世界で最も良い鉱山の1つであることは間違いない」

 

「私たちは大当たりを願いながら生きている。私が大当たりを当てたのは50年間で4回ほどだろう」

 

マリワナ産業のビジネス・プランを抱えた男は、さらなる大当たりを追いかけて生き続ける。

 

(翻訳ここまで)