たらのコーヒー屋さん - 2 店舗目

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アルジェリアの事件と実名の報道

アルジェリアの事件では、日本人 10 人を含む多くの方が亡くなられました。まだ行方がわからない方もいらっしゃいます。お亡くなりになった方のご冥福をお祈りするとともに、なるべく多くの方が無事で帰還できるよう心より願っております。

 

さて、被害者の方の実名報道の件がいろいろ議論になっています。政府と日揮は被害者の方のプライバシー尊重の観点から実名を公開することを拒否しました。被害者の親族の方のひとりは、実名報道しないことを約束に取材を受けたところ、翌日の朝刊には実名で記事が載ったと、ご自身のブログとツイッターで苦情を申し立てています。この方のブログは 1 日で 10 万ビューを記録したそうで、関心の高さがうかがわれます。

 

マスコミは実名の公開を要求しました。その論拠はいろいろあります。

 

毎日新聞元社会部長の小川一さん
「亡くなった方のお名前は発表すべきた。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」

 

報知新聞元社会部・ロンドン支局長の木村正人さん
「アルジェリア人質事件 僕は「Aさん」では死にたくない」

 

この辺の議論については、「どのように弔ってほしいかは人それぞれで、人それぞれであれば、遺族の気持ちが尊重されるべきだ」でおしまいと思います。

 

それよりも、「プライバシーと公共性を勘案して、ここは公共性が優先されなければならない」という議論はわかります。

 

たとえば、内閣記者会は「事件に対する国民の関心は非常に高く、」などの理由で公開を要求しました。

 

私は、プライバシーがどのような状況でも優先されるべきだとは思いませんので、この議論が議論としては有効であることは認めます。しかし、これを読んで最初に思ったことは、「あなたに (国民のひとりである) 私を代表してほしくない」ということでした。

 

インターネットの掲示板 (2 channel や BLOGOS) を読むと、マスコミ以外の人は匿名で構わないと言う人が大部分のようです。ただ、公開を要求する議論に反対するのは、議論自体に反対であるというよりも、そうした議論を行う当事者としての正統性をマスコミに認めていないからのように私は感じます。たとえ話になりますが、非業の死を遂げた方をみんなで悼もうとしていたら、普段は無責任な行動を取っていた人が「葬式はおれが仕切ってやるからよー」といきなりしゃしゃり出てきた。そんな印象です。

 

上で引用させていただいた小川さんが、ご自身のツイッターの中で次のような事例を紹介しています。

 

「東日本大震災の時、岩手日報は避難所に張り出された被災者の名簿をそのまま記事にしました。被災者の中には自分の名前が紙面に載ることがいやな人もいたと思います。しかし、岩手日報は、生存者の名前を載せることで安否確認ができ、何より被災者の生きる力になると考え、紙面化を決断しました」

 

「岩手日報は今、震災で亡くなって人全員の名前、写真、生前の営みを紙面化する仕事を続けています。一人一人の人生を記録し、ともに悲しみ、ともに泣くためです。実名報道には、悲しみをみんなで共有し、悲しみを癒す力があると信じます」

 

私は岩手に住んだことがありませんし、岩手日報を見たこともありません。岩手日報が読者の皆さんとどのような関係を築いているのかもまったく知りません。しかし、もし、岩手の皆さんが、「おれたち/私たちに声を与えてくれるのは岩手日報なんだ」「岩手日報はおれたちのメディアなんだ」という気持ちを持っているのであれば(そこまでの関係を岩手日報が築いてきているのであれば)、岩手日報の報道を悪く思う読者は少ないのではないでしょうか。

 

まあ、私も朝日新聞や毎日新聞に「私たちに声を与えてくれる」なんてことまでは望みませんが、それにしても公平な報道を心がけ、タブーにチャレンジし、民主的な議論の場を提供し、クロスオーナーシップや押し紙などの自組織のグレーな領域にも他者に対すると同じ厳しさで対処するなどして、私たちの社会に貢献してくれているのなら、膝を交えて話を聞こうじゃないか、という気持ちにもなるのではないかと思います。




PS: この文章を書いている途中に、ご遺体が日本に到着後に氏名を明らかにすると菅官房長官が発表したとの報道がありました。