たらのコーヒー屋さん - 2 店舗目

たらのコーヒー屋さんです。

『インビクタス』でもうちょっと。

2 年くらい前に日本に帰る飛行機の中で『隠し砦の三悪人』を見ました。リメイクの方です。松本潤さんと長澤まさみさんが主演のやつ。全体的には結構おもしろい冒険活劇だと思ったんだけど、ラストシーンがちょっとあんまりでシラけてしまいました。

 

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(ネタばれします)
一族がみんな死んでしまったので長澤まさみ演じる姫がこれから領土を治めることになるんですが、とにかく民衆たちが「お姫様、いつまでもあなたについていきます」みたいなことを言って、お姫様もそれに心を打たれて「民衆の愛に応えて、私も民衆を愛し、すばらしい国を作らなければ」みたいなことを言うわけです。

 

ひどくシラけたことだけ凄く覚えていて、細かい内容は違っていると思いますが、すみません。とにかく、最後に姫が情に流されちゃうんですが、それがリーダーとして素晴らしい資質のように描かれていたのです。いや、でも、ちょっと待ってくれ、リーダーがそんな無防備に情に流されてもいいのか? そんな奴がリーダーだったら、危なっかしくて付いていけないだろ、と思ったのです。

 

で、『インビクタス』です。数日前にも書きましたが、ネルソン・マンデラと南アフリカ・ラグビー代表チームの物語ですね。

 

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映画としてはものすごく面白いです。私も何度か涙ぐみました。人種間の対立とか、深刻に描こうと思えばいくらでも深刻に描けたと思うんですけど、そういうのはどちらかというとおとぎ話のように処理されている (マンデラさんの護衛官チーム内の人種対立とか、ピナール主将の家族と黒人メイドの関係とか、さすがに実際にはもうちょっとドロドロしたものがあっただろうと思います)。いや、私は別にそれもちゃんと描いてくれと言いたいわけじゃないです。イーストウッド監督は、Feel-good で crowd-pleasing な優れたエンタテインメント映画を作り上げたと思います。

 

ただ、あまりに感動物語に仕上がっちゃったせいで、心の広さとか寛容の精神とか、マンデラさんの情の深さっていか心のきれいさみたいなことばかりが見た人の心に残っちゃうような気がして、ちょっと嫌だなーと思うのです。

 

マンデラさんは、27 年も投獄されていたことからもわかるように、必要であれば対立的な態度を選択することのできる人です。それができなければリーダーにはなれないし。マンデラさんが大統領になった時点で、白人と黒人が融和することが国を成り立たせるための唯一の方法だったと、ほとんどの人はわかっていたはずです。もちろん、自分を迫害してきた白人たちを赦すのは、マンデラさんのような人にとっても大変が葛藤があったことは想像に難くないけど、だからといって赦しの気持ち、寛容の精神みたいなことだけでマンデラさんを賞賛するのは情に棹を差しすぎだと思う。だって、政治的なリーダーとしてはそれしか道はなかったんだから。

 

いや、もちろん、ジンバブエの大統領みたいに白人に対立的な姿勢をとって国を破滅に追い込んだ政治家もいるわけだから、それに比べたらマンデラさんは偉いというのはわかるけど、それは比べる対象のレベルが低すぎるでしょう。

 

マンデラさんが賞賛されるべきなのは、情に流されてではなく頭で判断して寛容を選択し、知力を総動員して冷静に決断し、固い意志で実行し、民族間の融和を実現したことだと思います。それを、「赦し」みたいな情の部分で、いや情も物凄く大事なことなんだけど、でもそればっかり言い募っちゃう人がいたとしたら、ちょっとそれは危険だと思う。「赦し」みたいなのと「怒り」みたいなのはコインの表と裏みたいなもんで、「赦し」っていう情に流されちゃう人は「怒り」っていう情にもすぐに流されちゃうと思います。エモーションが行動を規定しちゃうってことだから。それに対抗できるのは、マンデラさんも使った冷静な知の力だと思います。もちろん、知に働きすぎれば角がたっちゃうんだけど、それにしても知の部分を軽視しすぎるのはやっぱりまずいんじゃないかと。

 

たとえば、マンデラさんが大統領になった時点で、白人と黒人の融和を推し進めるしか道がないようにほとんどの人には見えたとしても、それでも白人に対して対立的な態度を取るべきだ、っていう議論自体は許されるべきだと思います。冷静な知の部分で「融和」を選択したのであれば、文明的な議論で相手を説得することができるでしょう。でも、人として徳の高い行いだからなんていう理由で「赦し」を選択したのだとしたら、「赦し」を選択しない人、対立的な手段に訴えたい人に対して、徳の低い人という人格否定でしか反論できないと思いませんか。

 

映画だから主人公のマンデラさんに感情移入するのは当然だけど、私ら普通の人はマンデラさんのような立場ではないわけで、自分の身に置き換えて考えるとしたら、たとえば現場にいる大統領護衛チームのメンバーのような人になります。黒人でも白人でもどちらでもいいですが、その人たちの立場になったと考えてみたら、「人種の融合」と一言で言うものの、こりゃそうとうやっかいなタスクだなーと思うのですね。それを切り抜けるには「赦し」のような情ももちろんのこと、知力も同じくらい必要とされると思うわけです。

 

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もう一人の主人公であるピナールさんのインタビューが新聞に載ってました。もちろん、ピナールさんもこの映画を気に入っていて、イーストウッド監督、モーガンさん、デーモンさんなんかとどんな風に仲良くなったかとか楽しく語っているのですが、不満な点についても正直に語ってたので、その部分だけ。

 

ラグビーをプレイするシーンについてはちょっとがっかり。具体的に何が気に入らなかったのかは書いていませんが、肉体的なぶつかりあいだけが強調されてて、華麗なパスとかランとかがあまり表現されてないせいかも。

 

原作となった本から重要な要素がいくつか省かれているのにはびっくりした。決勝戦の試合前にマンデラさんが選手控室を訪問した話とか。

 

ワールドカップの前に、南アフリカのラグビーチームが箸にも棒にもかからないように描写されてるが、そんなに言うほど前評判が悪かったわけではない。

 

彼の父親の役が、マンデラさんがリーダーとなるときに多くの南アフリカ人が感じていた不安と敵意を描写するために主に使われている。

 

映画ということはわかっているけれども、デーモンさんが演じた「私」は本当の自分とはちょっと違う。「私はビールの缶を壁に投げつけたりしないし、チームメートに国歌を歌うように頼んだりはしない。国歌を歌わない奴はチームを去るべきなんだから。そこに妥協はない」

 

公開に先立って、ピナールさんはアメリカでこの映画を見たそうです。そのときにある白人の南アフリカ人に会ったそうなんですが、その人と話をしたときに、この映画が何を意味するかわかったと言います。

 

ピナール:「その南アフリカ人は映画を見たあと私にこう言いました。『私はもっと沢山のことをするべきだったし、もっと沢山のことができたはずだった』と。逆もまた真なりです。黒人の南アフリカ人も国のためにもっと沢山のことができると感じているはずです。この映画がそれを達成したのであれば、それだけでこの映画は完璧なんです」。