たらのコーヒー屋さん - 2 店舗目

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50 年前の東京五輪に出場したアイルランド選手 (2/2)

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ミーブ・カイル (400m、800m)

 

今となっては信じられないことですが、1950 年代まで体力的に女性が走れる最長距離は 200m だと考えられていました、1960 年のローマ大会で 800m が追加され、東京大会で 400 m が追加されました。800m は 1928 年のアムステルダム大会で 1 回だけ行われたのですが、疲れ過ぎてゴールできない選手が続出したという新聞報道があったらしくて (真偽は不明)、以後、とりやめになったらしいです (ちなみに、アムステルダムでは日本人の人見絹江さんが銀メダルを取っています)。

 

カイル選手は 400m が得意種目だったのですが、1956 年メルボルン大会と ローマ大会では100m と 200m に出場。カイル選手は東京五輪では 36 歳になっていました。東京で出場した 400 と 800 ではどちらも準決勝どまりとなりました。最大の後悔は、メルボルンとローマで 400m があったらなあ、ということだそうです。

 

彼女は、凄く日本人のことを嫌いになるだろう、と思いながら東京に行ったそうです。これは、彼女のおばあさんのいとこが戦争で日本軍の捕虜になっていたことに起因します。日本を好きになるつもりはまったくなかったにもかかわらず、日本に魅了されてしまったと語っています。

 

彼女の言葉をそのまま訳します。

 

「彼ら (日本人) が私たちよりあんなに先に進んでいるとは思いもしませんでした。彼らが新たに芽生えた自信を表現し、第二次世界大戦からどのように立ち直ってきたかを示そうとしていたのは間違いありません。彼らはまるで違う波長を使っているようでした。変に聞こえるかもしれませんが、私は実際にそのように感じたのです。それはまるで、今で言うなら、スマートフォンタブレット PC を見たことのない人がどこかを訪れたようなものです。私たちにはそのように思えました。私は大学で科学を専攻していましたから、こうした日本のテクノロジーや社会に本当に魅了されました」

 

「大会そのものは素晴らしく組織されていました。電子計時、写真判定、結果の印刷、テレビ生中継が初めて行われたのはこの大会です。誰もが何をいつすべきか理解していました」

 

「しかし、私を本当に魅了したのは人々です。経済的に復活しようといかに努力していたか。彼らはすべての産業を家族のように運営していました。戦後の世代は大きく異なっていました」

 

「彼らはまた、学ぶこと、そして教えることにとても意欲的でした。私は自由時間に、生け花、お茶、着物の着付けのクラスに参加しました」

 

「クラスの最後に、とても綺麗な絹の着物と付属品をプレゼントしてくれました。今でも私のワードローブに掛けてあります。食べ物については私は新しいものを試すのが好きなので、日本の食事、彼らが野菜を調理する方法も気に入りました。野菜はいつも完璧に料理されていました」

 

メルボルンとローマの大会に出場しましたが、それでも東京は私にとって素晴らしい機会となりました。東京は大きな印象を私に残しました。他の五輪大会以上に、もっと指導に時間を捧げよう、他の若いアスリートたちが同じような機会を体験できるのをサポートしよう、と東京は私に思わせてくれたのでした」

 

彼女の「違う波長を使っているようだった (It was like they were on a different wavelength)」という表現が好きです。「波長が合わない」というと意見が合わないということですが、ここではまったく考え方の違う人たち、という意味で彼女は使っています。カイルさんにとっての「Lost in Translation」的体験だったのでしょうか。