たらのコーヒー屋さん - 2 店舗目

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セント・ブレンダン病院

うちの近所のグランジゴーマンという地区に、病院の大きな敷地がある。あまり人の気配がしないので、かつて病院だった場所なのか、現在も機能している施設なのかよくわらかなかったんだけど、土曜日の新聞で現役だということを知った。しかし、あと数日で、その 199 年の歴史を閉じるのだそうだ。

 

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セント・ブレンダン病院は精神病院なので、人が病気を治したり、医学の力及ばず亡くなってしまう場所という以上の、あまり語られない過去がいろいろある。治療の場というよりも収容所だったりとか。入ったまま、死ぬまで出られない人も大勢いたとか。

 

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カール・オブライエン記者は、まず、引き取り手のなかった患者の遺品を見せてもらう。箱がいくつも天井まで積み重ねられていて、ひとつひとつに人の命の名残りが詰まっている。「申し訳ないのですが、家に帰れないかというあなたのお願いにイエスと答えることはできません。もう少し、今いる場所で留まるように頑張ってもらえませんか。あなたに必要な形であなたの世話をすることができないのです」みたいな手紙とか。ほとんどの所持品は 1950 年代、60 年代のものだそうだ。

 

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設立された当初は、革命後のフランスで提唱されていた人道的な手法を取り入れた病院だったのだが (患者を鎖でつなぐのをやめたりとか)、入院する人が増えるにしたがって、病を治療することよりも施設を管理することの方に重点がシフトした。もともとは一般の人が運営していた施設も、次第に医療関係者の手に委ねられるようになる。

 

実験的な治療法が導入されたのもこの頃で、「コックス博士の回転ブランコ (Dr. Cox's circulating swing)」と呼ばれる器具で患者を高速で回転させたり、「驚きの風呂 (Bath of surprise)」と呼ばれる絞首台のような器具から患者を水風呂に突き落として強制的に嘔吐させたり、みたいなことが行われていた。

 

時代を下れば、インスリンの投与でこん睡状態に陥らせるインスリン療法や悪名高いロボトミーなども行われた。こうした治療は 1960 - 70 年代ぐらいまで続いたそうだ。

 

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1960 年代から 90 年代後半までこの病院に勤務したアイヴァー・ブラウン医師によると、かつては 1 つの病棟に 100 人以上も押し込まれていて、衛生状態は悪く、患者と医師との間に意味のある関係を築くことも不可能だった。人々は、アルコール中毒とか、粗暴なふるまいとか、誰とでも寝るとか、そういう的外れの理由でこの施設に連れて来られ、一生、外に出られなかったり、外では生きられないほど施設に依存するようになる人も多かった。

 

「しかし、」とブラウン医師は言うのだが、この病院が伝統的な意味でのアサイラム (保護施設) であったことも確かで、外の世界からの避難所の役割も果たしていた。コミュニティとしての連帯があり、ケアもちゃんとしてたので 80 歳や 90 歳まで生きる人もいた。

 

ブラウン医師が 60 年代に主任医師になったとき、最初にしたことは、外界との遮断の象徴である高い壁を取り壊したことだ。残念なことに、しばらくしてから、柵を付けなければならなくなったのだが、これは患者を閉じ込めるためではなく、外の世界からの反社会的な行為を防ぐ必要が生じたからだ。

 

今も入院している患者は、敷地の端っこに新しく建てられたフェニックス・ケア・センターに転院する。20 世紀の初めには、セント・ブレンダン病院には 2500 人が収容されていたのだが、この新しい施設の病床の数は 54 だそうだ。

 

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30 ヘクタールあるセント・ブレンダン病院の跡地には、ダブリン工科大学 (DIT) がやってくる。DIT の校舎は現在は市内のあちこちに散らばっているんだけど、それらをすべてまとめて単一のキャンパスを作るので、しばらくすれば 20,000 人を超える学生がここに通うようになります。


写真1: 病院の正門。
写真2: リッチモンド・アサイラムとして設立された当初からの建物。もう何十年も使われていない。(アイリッシュタイムズより)
写真3: 引き取り手のなかった所持品。(アイリッシュタイムズより)
写真4: 看護婦寮のオープニング式典 (60 年代) (アイリッシュタイムズより)
写真5: 新築のフェニックス・ケア・センター。フェニックスっていうのはフェニックス公園が傍にあるから。たぶん。