大久保嘉人は日本代表のサッカー選手です。6 月のワールドカップでも活躍しました。左サイドを走り回って、前線では潰れ役をやり、守備では長友との連携でサイドの突破を許しませんでした。
大久保選手は、体は大きくありませんが、というか体が大きくないからか、闘志を前面に出してプレーする選手で、私は大好きです。しかし、そのファイティングスピリットが空回りしてしまうことがあり、そうなるとラフプレーが出て、黄紙をもらったり、退場させられたりすることもよくあります。
大久保選手は W 杯後に怪我をして、ずっと休んでいたんですが、先週末のマリノス戦で復帰しました。彼の所属する神戸は残留ラインぎりぎりのところを彷徨っているのですが、大久保が戻ってくれば神戸は立ち直る可能性があるぞ、などと J リーグファンは思っていたのです。
そしたら、いきなり退場をくらいました。本人は故意ではないと言っているのですが、ボールのないところでマリノス若手売り出し中の小野選手の足を踏んずけ、一発退場です。小野選手がまた 17 歳の高校生なのにこすっからくて、大げさに倒れ込むんです。年がら年じゅう顔を合わせる国内リーグであんまり姑息なことはやらない方がいいぞ、と中村俊輔選手あたりがアドバイスしてあげた方がいいのではないかと思いますが、まあ本題とずれてしまうので深くは追求しません。
大久保選手はそのアグレッシブさが持ち味です。体があまり大きくないので、それがなければここまでの選手にはならなかったかもしれません。しかし、それがマイナス方向に出て試合を壊したり、チームに迷惑を掛けたりします。
大久保、もういい年なんだから、ちょっとそれ何とかしろよ、と言わないといけないのですが、それによって彼の持ち味である闘争心が失われてしまっては、それはもう大久保選手ではありません。
だから、大久保選手のそういう攻撃性は素晴らしいことなんだ、とアナウンスしてしまった方がいいと思うのです。そういう攻撃的な部分は良いことなんだからもっと伸ばす、だけどそれをコントロールするスキルを学ばなければいけないということです。つまり、攻撃性という彼の生まれもっての性質を祝福した上で、それをコントロールするという後天的に学べるスキルを磨くことをがんばってもらう、ということです。
話は変わりますが、ナショナリズムです。いまはまあ、尖閣諸島のいざこざがありますので、そういうことはよく考えます。ナショナリズムという言葉を聞くとき、私たちはちょっと居心地が悪くなります。なんででしょう。
私たちが所属する最小のグループは、たぶん家族です。家族愛はとてもいいことだとして奨励されています。私も異存はありません。もう少し枠を広げると郷土愛です。郷土愛もとても素晴らしいことです。ところが、これをもうちょっと広げて国の単位になって、愛国心とかナショナリズムになると、とたんに気まずくなります。もうちょっと広げて世界になると博愛主義とかいってまたいいイメージになるんですが。
国というのは、私たちが所属するひとつのグループ、チーム、社会ですから、それを愛するというのは自然なことだと思います。家族でも郷土でも同じですが、1 人で生きているわけではないので、国という社会から何かを与えられて、自分のできる範囲で社会に何かを返す。蛇口をひねれば飲み水が出てくるみたいな単純なことでも、それは先人が残してくれた遺産であって、それを使わせてもらう代わりに、自分もなんか次の世代に残せるものは残していく。
だから、国を愛する気持ちは自然なことなんだから、それはもう素晴らしいことなんだとアナウンスした方がいいと私は思います。そのことで後ろめたく思うのは間違っていると。その上で、それをコントロールするためのスキルや知識を身につけることを奨励すると。それは、他の国のアイデンティティを持つ人とどう折り合いをつけるかとか、ナショナリズムばっかり言うと国内にいる外国人が疎外感をもつかもしれないので、それに対する手当をどうするか、社会への参加や包摂をどう働きかけるか、みたいな具体的なスキルです。
それからまあ、あとは性欲ですね。キリスト教暗黒時代は性欲も悪いものだとされてたと思いますけど、そんなことを言われても困りますので、それはそういう自然なものとして祝福した方がよいと思います。しかし、これはやっぱりしっかりコントロールしてもらわないと困ります。最後は下ネタになってしまいました。すみません。