今回のアイルランドの総選挙でプロの選挙ウォッチャーを一番驚かせたのは、ギャングのボスのジェリー・ハッチ (Gerry Hutch) があわや当選か、というところまで善戦したことでしょう。
ハッチは1963年生まれの61歳。ダブリンのノースサイドのインナー・シティで育ちます。インナー・シティというのは都市中心部にある低所得地域のことです。ハッチも8人兄弟の6番目で、お父さんは港湾で働いていたものの貧困にあえいでいました。10歳の頃から非行に走り、18歳までに車の暴走、暴行、窃盗などで30件以上の有罪判決を受けていました。
その後はドラッグ・ディーラーのエイモン・ケリーを親玉とするギャングの一員としてさまざまな犯罪に手を染めます。1987年と1995年にダブリンで起きた現金輸送車強奪事件にも関与したといわれていますが、この件では罪に問われることはありませんでした。というか、最後に刑務所に入ったのは20代のときで、それ以降はまったく有罪判決を受けていないのです。
アイルランドで彼の名前を知らない人はいないといってもいいと思うのですが、それは彼がアイルランドのドラッグ抗争の一方の主役だからです。これはハッチ一家とキナハン (Kinahan) 一家の血で血を洗う勢力争いです。ジェリー・ハッチは兄のエディーと甥のガリーを殺されています。もちろん彼自身も命を狙われています。ハッチ一家の方も2016年にダブリンのホワイトホールのリージェント・ホテルで行われたボクシングの計量会場でキナハン一家のメンバーを殺しています。実際のターゲットはキナハン一家のリーダーであるクリストファー・キナハンの息子ダニエルだったのですが、彼は早々に会場を去ったため命拾いをしたと言われています。
リージェント・ホテルでの殺人についてはジェリー・ハッチも逮捕されて裁判にかけられたのですが、2023年4月に無罪判決を受けています。リージェント・ホテルは現在はボニントン・ホテルと名前を変えています。
ケイト・ブランシェットが主演した『ヴェロニカ・ゲリン』という2003年の映画があります。ヴェロニカ・ゲリン (Veronica Guerin) はダブリンの女性ジャーナリストでドラッグに関する犯罪について取材をしていたところ、キナハン一家に殺害されてしまいます。このジャーナリストの生涯を描いた映画なのですが、ジェリー・ハッチも登場します (もちろん役者が演じています)。
では、なぜそんな彼に今回の選挙で票が集まったのか。まず、1960年代、70年代のダブリンのインナー・シティでは、貧困のために犯罪に走るしかなかったという彼の生い立ちに、共感する地元の人が多かったということ。そして、長年にわたって政治の世界に無視されてきたという思いがこの地域の人々にはあり、それに異議申し立てするチャンスがジェリー・ハッチ候補という形で現れたということ。また、ハッチ一家とキナハン一家を比べればキナハンの方が圧倒的に凶悪なんですよね。近い親類を殺されたという彼に対する同情もあるでしょうし、「ちょっとおもしろい」ぐらいの気持ちで票を入れた人ももちろnいるでしょう。
また、ハッチという人にはいろんな伝説があるのですよ。強盗事件を起こしながらも人を実際に傷つけることはなかったとか、麻薬の密売にはけっして手を出さなかったとかです。ただ、麻薬の密売には現場レベルでは携わっていなかったけれども資金面で関与していたのではという話もあります。彼自身が酒もたばこもクスリもやらなかったというのは本当のようです。子供の頃につるんでいた仲間が何人も中毒で命を落としたのをみて、そういったものを忌み嫌っていたそうです。「ザ・モンク」(僧)というニックネームも彼のそうした禁欲的な生活に由来します。
それから、彼は生まれ育ったコミュニティにいろいろ恩返しをしているらしいんですね。有名なのがコリンチャンスというボクシング・クラブです。建物を購入してそれを年に1ユーロでクラブに貸しているそうです。アイルランドは特に労働者階級でボクシングは盛んで、オリンピックでもメダルを獲ります。
また、いろんな団体やコミュニティ・グループ、クリスマス・パーティーなんかにもお金を出しているみたいです。「誰がお金を出しているかについてはけっして誰も口にしないのだけれど、誰がお金を出しているのか知らない人はいない」みたいな状態だそうです。
ハッチが立候補したダブリン・セントラル選挙区には私の住んでいるスミスフィールドも含まれます。かつては首相を務めたフィアナ・フォイルのバーティー・アハーンの選挙区であり、現在はシン・フェイン党首のメアリ・ルー・マクドナルドの選挙区です。私が住み始めたころにはトニー・グレゴリーっていうインデペンデントの政治家がいて、この人がインナー・シティの人々の声の役割を果たしていました。ジェリー・ハッチは尊敬する政治家としてグレゴリーの名をあげています。グレゴリーは61歳で早逝してしまい、モーリーン・オサリヴァンというやはりインデペンデントの政治家をはさんで、現在そうした声の役割を果たしているのはガリー・ガノンという社会民主主義党の政治家ということになると思います。
ジェリー・ハッチはダブリンのクロンターフの自宅とスペインのカナリー諸島にある別荘を行き来しているのですが、今年の10月にカナリー諸島で警察に逮捕されたのですね。容疑はマネー・ロンダリングです。総選挙に立候補するという理由で保釈が認められ、10万ユーロの保釈金を積んでダブリンに戻ってきたというわけです。スペイン当局によれば、選挙に敗れたからといって即座に留置所に逆戻りしなければならないわけではないようです。ハッチはクリスマスをダブリンで過ごし、その後カナリー諸島の別荘に戻る予定だそうです。
参考
‘This is a bit of craic’: Why Dublin Central voted for Gerry Hutch – The Irish Times
Johnny Watterson: Backing for Gerry Hutch symptomatic of inner-city alienation – The Irish Times