ボード・ガシュ・エナジー劇場でミュージカル『ハミルトン』を見てきました。アメリカ合衆国建国の父の1人であるアレクサンダー・ハミルトン(1755 - 1804)の物語。西インド諸島のネイビス島に非嫡出子として生まれ、孤児となり、ニューヨークに渡った後、文才を武器にのしあがる。フィラデルフィア憲法制定会議の発案者となり、アメリカ合衆国憲法を起草し、合衆国憲法批准を推進する連作論文『ザ・フェデラリスト』の主要執筆者となり、ワシントンの辞任演説にも影響を与えた。最後は対立関係にあるアーロン・バーとの決闘に破れて死去。
2004年にロン・チャーナウが発表したハミルトンの伝記『アレクサンダー・ハミルトン』を原作に、主演も務めるリー・マニュエル・ミランダが作詞作曲したミュージカルで、ほぼ全編が歌とラップで構成されるサング・スルーというかサング&ラップト・スルーのミュージカル。初演は2015年のオフブロードウェーで、好評を得てその年のうちにブロードウェーに舞台を移しました。批評家からの評価も観客からの人気も高く、今回のダブリン公演は9月17日から11月16日までの2か月間ですが、ほぼすべての回がソールドアウトです。
政治家の伝記モノなので辛気臭かったら嫌だなと思ったのですが、まったくそんなことはなく、逆にとても楽しいミュージカルでした。討論がラップバトルだったり、イギリス国王ジョージがコメディリリーフの役回りだったり、趣向が凝らされていました。ミュージカルというと割とメロディアスな曲が多くてお上品な印象があるんですけど、『ハミルトン』はラップがかなりの部分を占めていて、テンポよくて現代的でよかったです。あと、イギリス国王のパートが観客にバカ受けでしたね。ものすごく歌がうまくて、コミカルな動きをしながら、メロウな曲を感情豊かに歌い上げるんですけど、歌詞だけめちゃくちゃ残酷という。アイルランドの皆さんもイギリス国王には複雑な思いがおありと思いますが、今回は心の底からお腹を抱えて楽しめたのではないでしょうか。
このミュージカルでもう1つ話題になったのは、歴史上の登場人物を人種の違う役者が演じるということです。アメリカ独立の頃の政治劇ですから登場人物はほぼ白人ですので、それを白人以外の役者が演じるということになります。私が見た回も黒人、ヒスパニック系、アジア系の役者が大半を占めていました。ちなみに、女性側の主役であるハミルトンの妻を演じたのは日系の人でした。
違う人種が演じることについては批判する声もあったようですが、実際に観てみて、私はこれはありだなと思いました。もともと役者さんが自分以外の属性の役を演じる舞台はいくらでもあります。宝塚や歌舞伎はそうですし、コメディ的な演出で男性が女性を演じることもあります。翻訳劇を日本で演じるときは日本人が西洋人を演じます。私もロシアのバレエ団でアジア系が王子様を演じた『くるみ割り人形』や、アイルランド国立オペラでアジア人役者が複数登場する『椿姫』を見たことがありますが、大きな違和感はありませんでした。
結局のところ、『ハミルトン』はアメリカ人によるアメリカの建国の物語なのです。おれたち、私たちの国のはじまりはこうだった。これからもみんなで力を合わせて一緒に盛り上げていこうぜ、っていう趣旨の劇なんですよ。それなのにモデルになった実在の人物が白人だったんだから演じる俳優も白人だけなんていったら、そりゃないぜ、(有色人種の)おれたちはどうなんだ、という気持ちになるでしょう。そうなったらもともとの趣旨から外れてしまうわけです。シリアス劇ではなくミュージカルなのでファンタジー要素も強いわけですから、抵抗感なく受け入れることができました。ただこれはアメリカに住んでいるわけでもアメリカ人でもない私の個人的な意見ですから、アメリカ人の中には建国の物語やナショナル・ヒストリーについて様々な考え方をもつ人がいることも理解できます。
また、『ハミルトン』で違和感がないからといって、ほかの演劇や映画でも異人種が演じることに違和感がないかというと、そういうことでもないでしょう。たとえば海外原作のものを日本で製作するのは日本向けのローカライズなんですが、アメリカで製作するとなるとそれは国際市場向けのインターナショナライズなんですよ(特に映画)。そこにアメリカの人種問題解決のためのローカルな取り決めにすぎないポリコレを持ち込まれたら、反感を持つ人も出てくるのも当然だと思います。
そしてまたそのポリコレを説教の道具に使う人がいるんですよ。欧州や日本なら伝統などの過去のリソースを国民意識/ナショナリズムの構築に活用すると思うんですが、アメリカは未来志向なんですよ。過去のリソースが少ないので。イギリスの伝統を引き継ぐ選択肢はあったでしょうけど、それは独立戦争で断ち切ってしまったし。いわば、サウジアラビアやイランが、自分たちはアラブ諸国やイスラム世界の導き手なんだというプライドを国民意識/ナショナリズムの源泉にしているのと同様に、多様性・平等・包摂という「人類の普遍的な価値観」を推進する世界のリーダーだというのがアメリカの国民意識/ナショナリズムの源泉になっているわけです。そしてそれをナショナリズムだと気づかずにむき出しのまま宣教師のようにふるまう人が出てくるわけですね。説教されたり、むきだしのナショナリズムを押し付けられたりして嬉しい人はいません。