先日ボールスブリッジの運河沿いでソングライターのパーシー・フレンチ (Percy French) のベンチを見たことから彼のことを調べていたら、キャヴァン県のバリジェームズダフ (Ballyjamesduff) という町に彼の像が座ったベンチがあるというので行ってきました。モナハン県のクローニス (Clones) には行きたいと思っていて、同じ方向でもあったので。
バリジェームズダフは人口3000人ほど。昔はマーケット・タウン (マーケットを開くライセンスを持っていた町) でした。バリジェームズダフという名前はユニークですが、昔、ジェームズ・ダフというスコットランド系の領主さんがこのあたりにいたそうです。バリ (bally) はアイルランド語の「baile」を英語風につづったもので「町」ぐらいの意味です。
さて、パーシー・フレンチとバリジェームズダフとの関係ですけど、フレンチが「Come back Paddy Reilly to Ballyjamesduff」という曲を書いてバリジェームズダフの名を広めたということなんですね。フレンチは大学卒業後にキャヴァン県で土木技師として働いていたのですが、その頃に彼の馬車の御者をしていて、のちにスコットランドに移民したパディー・ライリーさんのことを歌ったものだそうです。
さて、そのパーシー・フレンチの像がこちら。この像は町の象徴的な建物であるマーケット・ハウス前の広場にあります。マーケット・ハウスはキャヴァン県出身の建築家アーサー・マクレーンにより1813年に建てられました。
パーシー・フレンチは1854年にアングロ・アイリッシュの地主の息子としてロスコモン県で生まれました。イングランドや北アイルランドのデリーで教育を受けた後、ダブリンのトリニティ・カレッジで学んでいるときに、彼の代表曲の1つである「アブドゥル・アブルブル・アミア」(Abdul Abulbul Amir) という曲を書きました。彼は 200 部を刷って小金を稼いだのですが、大きなミスを犯しました。著作権登録を忘れたのです。この曲の著作権は彼の死後になって親族が取り戻すことに成功したそうです。
「アブドゥル・アブルブル・アミア」の詩の舞台は露土戦争。オスマン・トルコの兵士アブドゥル・アブルブル・アミアとロシア帝国の兵士イバン・スカビンスキー・スカバーが出会い、自慢合戦のあと決闘をすることになり、両方とも死んでしまうというコミカルな曲です。著作権が登録されてなかったこともあってか、いろんな人に改変され、いろんな人に演じられて有名になりました。1941年にはMGMによってアニメも製作されました。
フレンチは水彩画もたしなんでいて、画家としても名前が売れていました。キャヴァン県の土木技師をやめてからはジャーナリストになり、ダブリンでコミック雑誌を編集します。その雑誌が休刊になったあと、フレンチはエンターテイメント業界に本格的に見を投じることになります。65歳のときにグラスゴーでの公演時に体調が悪くなり、1920年に肺炎のため死去しました。
以前は町の真ん中にパーシー・フレンチ・ホテルというホテルがあり、その隣にはパディー・ライリー・パブ (「Come back Paddy Reilly to Ballyjamesduff」の主人公の名前) というパブがありましたが、いまは廃墟化しています。2020年にキャヴァン県が購入し、現在は再開発を目指しています。キャヴァン県はその費用を850万ユーロと見積もっていまが、2022年の記事ではまだ目途はたっていないようです。
参考資料
Come back Paddy, but what about James Duff? | Anglo Celt
Abdul Abulbul Amir - Wikipedia