私がアイルランドに来たのは1993年なのですが、翌年のサッカーW杯アメリカ大会に向けての予選が佳境を迎えた年でもあります。
アイルランドは、スペイン、デンマーク、北アイルランド、リトアニア、ラトビア、アルバニアと同組で、この中から2チームが本大会に出場できるという仕組みでした。
本大会出場権を賭けての争いは、11月17日の最終節にまでもつれこみます。アイルランドは北アイルランドに引き分け以上で勝ち抜けが決定します。
当時の北アイルランドはまだ紛争の真っただ中で (和平が結ばれるのは1998年のこと)、ベルファストには敵対的な空気が満ち溢れていたようです。
以前、このブログにも感想を書いたドキュメンタリー映画『Finding Jack Charlton』の中で、選手だったナイル・クインがこの日のことをこう回想しています。「バスでスタジアムに向かう途中、10代前半の少年たちが2列に隊列を組んでいるのを見た。前列が一斉にバスに向けて銃を打つような仕草をすると (実際に銃を持っているわけではない)、次に後列が立ち上がって銃を撃つ仕草をした。十分にリハーサルを積んできたような動きだった」。
試合は後半の半ばまで0-0と緊迫した状況が続いたのですが、74分に北アイルランドのジミー・クイン選手が見事なボレーシュートを決めて先制。しかし、そのわずか4分後、70分にレイ・ハウトンに代わって途中出場したアラン・マクラクランが右コーナー近くからのフリー・キックのこぼれ球を豪快にミドルシュート。これがゴール左隅に決まってアイルランドは同点に追いつきました。
ゴールを決めた後、両手でガッツ・ポーズを作って自陣に戻っていくマクラクランの姿は、アイルランドのサッカーの歴史に残るアイコニックなイメージとなりました。
試合はこのまま終了してアイルランドは勝ち点1を獲得。これがなければ、94年のジャイアンツ・スタジアムでイタリアに1対0で勝って国中が沸騰なんてこともなかったわけです。
アラン・マクラクランは、北アイルランド戦での得点でヒーローとなり、引退後も何かあるたびにメディアにコメントを求められたりしていました。マクラクランは代表選手としては不動のレギュラーというわけではなく、ときどき後半に途中出場してくる選手というイメージでしたし、クラブでも2部リーグを主戦場としていて、プレミアでプレーしたことは1~2シーズンぐらいしかなかったのではないかと思います。それでも、ある年齢以上のアイルランド人で、彼の顔と名前が一致しない人はほとんどいないと思います。
マクラクランは数年前から腎臓がんを患っているという話を聞いていたのですが、昨日お亡くなりになったという知らせが入りました。54歳。
1993年っていうのは、まだケルティック・タイガーが始まる前なんですよ。アイリッシュタイムズには、「マクラクランはアイルランドに真の喜びを与えてくれた。それが不足していた時代に」という記事を掲載していました。
A tribute to Alan McLoughlin
— FAIreland ⚽️🇮🇪 (@FAIreland) 2021年5月4日
We will always have that night in November 🇮🇪 pic.twitter.com/A4b6CVQBAR
今日のタブロイド紙はどれもマクラクランの訃報を一面にもってきていました。